よく似た構造

またも子どもが被害者になる事件が起こった。
二週間で事故ではなく、あくまで殺意をもってして殺された小学生は何人になるのか覚えていることすら、もう難しい。塾講師が生徒を刺し殺した事件というのは、今の大人社会の典型だろう。大人が子どもと同じ目線で生きているというこの社会なら、同じ目線である以上力が強い方が弱いものに危害を加えただけだと言うことだ。街で食事していて、子どもの粗相を叱る親を見ていても良くわかる。友達感覚の親子関係、結局これがなにを生んだと言うのだろうか?経済も子どもを大人のマーケットに引きずり込んでまで儲けようと躍起になる今、大人が大人を怨恨で殺すレベルと大人が子どもを怨恨で殺すなんてのも、ほぼ同列だと考えてもいいだろう。

先日、みずほ証券が株の誤売却を行ってしまった。これによって生じると考えられる損益は300億以上と言われている。この誤売却に関して、みずほ証券は東証のシステムミスだと主張している。
??これって偽装マンションと同じ匂いがしないかと思うのは筆者だけだろうか?この一件、東証も反論に出るだろうし、この次に政府の公的な補償を求めたとすると完全に同じ構図となる。今後の動きが見ものである。

先日書いた偽装マンションの記事において、銀行の責任というものを書いていたけれども、案の定銀行は一銭も損をしない政府案が出た。それと、そもそも民間会社のミスに対して政府補償なんてものが行使されるほど、この国は民間事業に対して優しい国だっただろうか?

住民は被害者だから強くは言いたくない。夢のマイホームを手に入れ、それが打ち砕かれたのだし。
しかしながら、この偽装物件に対して融資したのは何所でもない銀行なのだ。この一件、実は今見えている裏側で、財務省からの天下り銀行員が暗躍しているのかもしれないなぁとも思う。

子どもに同列の怨恨を感じる大人や、人を殺しても法律で守られているからなんとも思わない子ども、金銭という単位の収集のためなら手段を選ばない大人・・・この国は今病気でいうと初期の病気なんだろうか?それとも末期なのだろうか?今のこの国を見ていると現実は性悪説で人を見なければならないのに、法だけが性善説に基づいているように思えてならない。そんなことは無い、悪い人が少数で目立ちニュースに上り目に付くだけだと言うなら善良な人々は控えめにならずにもっと前に出るべきであると思う。

今一度、日本人はコミュニティーとしての国、個の集合体としての社会と言うのを見つめなおす時期に来ているのではないだろうか?

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ALWAYS 三丁目の夕日を観る

映画館に足を運んだのは、去年「ハウルの動く城」以来になるので約一年ぶりとなった。ALWAYSを観に行こうと決めたのは正直なところ尊敬する漫画家の評が高かったからだ。その人は売れている音楽だろうが何だろうが正直に文句も言う人だし、注目されていないものでも高く評価するので、その評に騙されたつもりでもいいと思って足を運んでみた。

サブタイトルとなっている三丁目の夕日。これは原作である漫画のタイトルである。現在、ビックコミックオリジナルでも連載中で僕も読んでいる。漫画の絵は、当時をよくかもし出すリアルとは縁遠いタッチの絵とリズムで進むほのぼのしたものだ。これを綺麗な女優やカッコいい俳優でやるというのは、製作の話を聞いた時に正直どうなんだろう?と思っていた。

しかしながら期待は見事に良い意味で裏切られた。
実に秀逸。派手な面白さはないし、劇中大きな事件もない。しかしながら、画面から伝わる優しさが凄かった。何気ない風景にすら涙が出るのだ。
上映中頭によぎったのは
「テレビが来てみんなが祭り騒ぎになるぐらい、今と比べると貧しい時代だったのに
映画とはいっても、この情景を見て現代に生きる僕がどうして涙するのだろう?」
という感覚だ。

今の日本は確かに豊かになった。しかし、それは何かを代償にしたのではないかという疑念も浮かんだ。

映画のエンドロールを全て観て会場を後にしたが、難癖をつけるならただ一つエンディングのテーマソングぐらい
だろうか・・・まぁ、それも好みの問題だろう。

この映画の一番良かった点は、観客の年齢層が幅広いこと。音楽も何でもそうだけど、特定の世代しか知らない
という箱庭的な文化が多い中、こういう映画は貴重だなと思った。NANAなんかじゃ50代の夫婦と隣り合わせになることもないし、同じスクリーンを観て一緒に泣くこともないだろう。

単なるノスタルジー映画としての鑑賞ではなく世代を超えて楽しんでもらいたい作品でした。
堀北真希という子も良かったし、堤真一、吉岡秀隆、小雪、薬師丸ひろ子とキャストもバッチリ。
話の設定が年末となっているので、歳が明けてからでは乗り遅れ感が強いこの映画、観にいかれるなら年内にぜひ観ておいてもらいたい。

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どうなってんだ、この国は

 いつからこんな国になったのだろう?

小学生が安全に登校できなくなったり、建築物を含む製造物に安心を置けなくなったのはいつ頃からなのだろうか。何年かに一度起こるか起こらないかという様な事件が、一年に何度も起こる。昔あったグリコ森永事件なんてのが霞んで見えないくらいだ。この調子だと、姉歯建築士の自宅にマスコミを呼びつけて暴漢が飛び込んでマスコミの目の前で殺すなんてことも普通に起きそうだ、豊田商事のあの事件はショッキングだったが今や起こっても市民は普通に暮らしていけそうな勢いである。

 この間、殺されてしまった女子高生の事件も今や霞みつつある。
彼女は死者に人権がないことを最も教えてくれた気もするし、少年法で守られ映像すら出ない加害者の人権ばかり守られている現実も教えてくれる。法治国家にして法が狂っているのだから、法治国家を名乗っているこの国は終わっていると言ってもいいだろう。法治国家とは「法の中なら何をやってもいい」という国家ではない。「法を犯さないようにし、法を守る」という国家のはずだろう。耐震偽造にしてもそう、検査機関を通すという法さえ守ればそれで良いという理念に基づいている。

 拡大した人権、それも大きな問題だろう。人の勝手の範疇とはどこまでか?それの外枠を決めていない限り、どこまでも権利は拡大する。その権利の最大の拡大した形が加害者が被害者の命を奪うという行為なのではないだろうか?マスコミはそういった自由にも似た無節操な拡大を個性と叫び、音楽は半径1.5メートルの狭い世界を歌い続ける。

 大抵、変質的な殺人が起こるとき周囲で不審者情報が寄せられる。しかも、起こった後により多くの情報が。疑わしきは罰せずという時代は終わったのではないだろうか?いかに疑われないか、しっかり生きるというのもこれからは一つのモラルとして掲げなければならないのではないか?警察も点数稼ぎの交通の取り締まりばかりに力を入れて、そういう情報を本当は無視しているのではないか?交通の取り締まりだって、原付のオバちゃんとか無難な相手を捕まえている間に、いかにも交通放棄を無視してそうな厄介な連中は取り締まったりしていない。人は見た目で判断すべきではないという意見もあるだろう、だがならば何故不審者という言葉や疑念が人の印象に残るのか説明して欲しい。拡大した人権感覚のおかげで、公序良俗という範囲が曖昧になっている現状は既にモラルハザードという言葉の領域を脱しつつあるように思う。

日本人は、社会とか世間体という言葉が好きだが、自分が社会の構成員としての自覚は無いに等しい。人は駄目で自分のところは良いなんて考え方を往々にする。まずは、自分の身辺から犯罪に手を染める人間が出ないか確認する作業から始めるといいと思う。社会を構成する最小の単位は家庭だだからだ。自分の子どもがモンスターじゃないかぐらい親なら監視しろと声を大にして言いたいのは僕だけなんだろうか。

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終わりのある始まりなのだろうか

<耐震偽造>姉歯物件は206件、43件で改ざん 国交省 (Yahooー毎日新聞)

各都府県が同省に「偽造はなかった」と報告したのは計100件だが、確認方法の信頼性が揺らいでおり、同省はさらに詳細な調査・報告を求めることも検討している。

連日連夜、このニュースの話を聞かない時はない。
今回の問題は、構造的な問題なのかどうなのか?果たして、この話自体どこからが発端で漏れたのか?関係者が密談を行ったときのヒューザー社長が発言されたとする「できれば発表せず、地震でも起こってから欠陥が出た方がいい」といった類の発言。正直なところ、この一件に関わった人間なら公表しないことが一番の隠蔽だったはずだ。イーホームズの代表が「外部からの情報」としたもの、それの出所がどこなのか興味が尽きない。現代建築業界のディープスロートがいるはず。この人物は、おそらくもっと多数の情報を握っているはずだし、情報が出した経緯を述べることができるはずだ。果たして、この人物表に出てくることがあるのだろうか。

疑問が残るのは、姉歯氏があれだけ堂々とテレビカメラの前で関与と事実を認めたことだろう。今、マスコミをにぎわせている関係者は罪の被せ合いをしている。その中の中心的な人物でありながら、先頭を切って堂々とカメラの前で淡々と否認もせずに述べ続ける姿に疑問を感じざるを得ない。彼を動かしている人物もいるのではないかと勘ぐるのが普通であろう。今回の事件の大きさと関わる人間、お金の大きさから考えると、あれだけのことを言うと命すら狙われかねない。現にこの事件に関連して自殺とされるが命が失われている。

今回の事件、住民の補償についても論議されている。果たして、公的資金を投入するのは正解なのだろうか?詐欺にあったら国は補償は本来してくれはしない。そもそも、銀行もマンション家屋を担保として受け入れたのならば、自らの担保に対する調査能力が足りなかったと言い換えることもできるだろう。貸した金に見合う物として物件を見たのだから。ならば、今回の話住民が動くよりも金融機関が動くのも普通のように思える。金融機関の方が、正直なところ官に近い立場にあるわけだし。

とはいえ、この一件、本当に終わりのある始まりとして見ていいものか気がかりである。氷山の一角という言葉があるが、その海面下に本当は多くの「プチ姉歯物件」あるのではないかと勘ぐるのは僕だけなのだろうか。

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終わりのある始まりなのだろうか

<耐震偽造>姉歯物件は206件、43件で改ざん 国交省 (Yahooー毎日新聞)

各都府県が同省に「偽造はなかった」と報告したのは計100件だが、確認方法の信頼性が揺らいでおり、同省はさらに詳細な調査・報告を求めることも検討している。

連日連夜、このニュースの話を聞かない時はない。
今回の問題は、構造的な問題なのかどうなのか?果たして、この話自体どこからが発端で漏れたのか?関係者が密談を行ったときのヒューザー社長が発言されたとする「できれば発表せず、地震でも起こってから欠陥が出た方がいい」といった類の発言。正直なところ、この一件に関わった人間なら公表しないことが一番の隠蔽だったはずだ。イーホームズの代表が「外部からの情報」としたもの、それの出所がどこなのか興味が尽きない。現代建築業界のディープスロートがいるはず。この人物は、おそらくもっと多数の情報を握っているはずだし、情報が出した経緯を述べることができるはずだ。果たして、この人物表に出てくることがあるのだろうか。

疑問が残るのは、姉歯氏があれだけ堂々とテレビカメラの前で関与と事実を認めたことだろう。今、マスコミをにぎわせている関係者は罪の被せ合いをしている。その中の中心的な人物でありながら、先頭を切って堂々とカメラの前で淡々と否認もせずに述べ続ける姿に疑問を感じざるを得ない。彼を動かしている人物もいるのではないかと勘ぐるのが普通であろう。今回の事件の大きさと関わる人間、お金の大きさから考えると、あれだけのことを言うと命すら狙われかねない。現にこの事件に関連して自殺とされるが命が失われている。

今回の事件、住民の補償についても論議されている。果たして、公的資金を投入するのは正解なのだろうか?詐欺にあったら国は補償は本来してくれはしない。そもそも、銀行もマンション家屋を担保として受け入れたのならば、自らの担保に対する調査能力が足りなかったと言い換えることもできるだろう。貸した金に見合う物として物件を見たのだから。ならば、今回の話住民が動くよりも金融機関が動くのも普通のように思える。金融機関の方が、正直なところ官に近い立場にあるわけだし。

とはいえ、この一件、本当に終わりのある始まりとして見ていいものか気がかりである。氷山の一角という言葉があるが、その海面下に本当は多くの「プチ姉歯物件」あるのではないかと勘ぐるのは僕だけなのだろうか。

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日本のスポーツ界というもの

hesodenai

 ゴルフの世界女王アニカ・ソレンスタム(34=スウェーデン)が、米女子ツアー参戦を夢見る宮里藍(19)と横峯さくら(19)を熱烈勧誘した。米フロリダ州オーランドでインタビューに応じ、2人の米女子ツアー早期参戦を期待した。  <日刊スポーツ>

宮里藍の世界を舞台にした活躍が目覚しい。昨年、新たなスターの誕生が相次いだ日本女子ゴルフ界だったが、今年に入り世界でも通用することを宮里が証明したようにも思えた。ただの人気だけではなく実力すらも証明し始めていたるのだろう。実際、彼女は海外での二戦10代とは思えない強さを見せていた。

アニカ・ソレンタムが日本女子ゴルフ界の二人のスタープレーヤに米女子ツアーに参戦を促すような発言をしている。しかし、ここでもやはり考えなければならない。日本野球界が辿った道がそこには待ち受けているかもしれないからだ。

日本プロ野球の人気が衰退していった理由は幾つかあると思う。ただ、その中に実力の高いスター選手がよりレベルの高いメジャーリーグに移籍していった経緯も見過ごすことはできない。スポーツを観戦する立場の人間において実力の高いスター選手というのはお目当てであるだろう。その選手たちが海外へ移籍してしまえば、観戦する立場の者たちはお目当てを失うということになる。ファンというのはそれぐらいかなりシビアなものだろうから。今や、日本のスポーツ界は相撲を除いて海外のスポーツ市場に奪われスポイルされている状態だろう。もしも、野茂がいればイチローがいれば・・メジャーに移籍していった選手たちが日本のプロ野球にいればどれだけ今頃日本球界は盛り上がっていただろうか?この上、上原選手、松坂選手もメジャー移籍をほのめかしている現状。もしも今の球界から彼らを差し引いたことを考えれば想像することすら恐ろしくなる。

女子ゴルフ界も同じようなジレンマを今の二人の人気におんぶに抱っこならば、おそらく招くことになるだろう。今は確かにチャンスだけれども、これを気に常に日本女子ゴルフに目が集まり、そしてファンを増やすことが重要なのではないだろうか?

アスリートが更なる極みに挑戦することを誰も否むことはできない。それはプロだろうとアマチュアだろうと同じことだろう。プロの選手の海外への移籍を否定する気もない。しかしながら、日本のスポーツ界にはそういう極みとして存在し続けられるスポーツ界がないのも事実。今後、どのようにして国内のスポーツ資産の流失を防ぐのか、世界に実力が通用する人間が増えた今こそ考えておく必要があるように思えてならない。

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阪神淡路大震災から10年

明日の朝、1995年の阪神淡路大震災発生から10年をむかえる。

あの朝、僕は人生でもっとも大きいと感じた地震で目を醒ました。被害の大きかった神戸地域よりも何十キロも離れた場所ではあったが、あれほど衝撃の強い地震は感じたことが無かった。僕の家では被害という被害は出なかったが、電気が止まっていた。僕は常に枕もとに置いてあった乾電池式のラジオを、飛び起きてきた家族の集まる居間へ持って行きチューニングを合わせた。第一報は、阪神地区で大きな地震があったという感じだけだった。僕は、大学の試験があったので大学へと状況がわからないまま向かった。その大学も被害は無かったのだが、試験は中止となっていた。電車が全く止まっているという。そして、そのまま友人の家に向かってテレビを見て驚いた。僕が行動している間にメディアの取材が始まっていたのだ。朝、知ることの出来なかった情報がそこにはあった。被害と呼ぶにはあまりにも残酷な映像がそこには映し出されていた。

報道が伝えれば伝えるほど、被害はひどいものだと認識が深まった。ただ、川を一つ超えるか超えないかという部分で神戸地域と大阪地域の被害には大きな差があった。大阪では普通に人々が暮らしていたが、一つの川の向こうではメディアが映し出す現状が広がっていた。兵庫よりも京都に近い僕の町のコンビニエンスストアーからパン類が消えた。僕も偶然買い物に行っている時に宝塚からパンを買いにきたという人に出会った。僕はボランティアに行く勇気がなかった。だから、そのコンビニに置いてある義捐金の募金箱に財布に入っていた紙幣を少額だけれども入れた。偽善だと言われてもお金を渡すことで何かの役に立てて欲しかった。これが当時の僕が感じていたこと、見てきたことの一部だ。

10年が経つ。言葉では簡単だが実際はどうなんだろうと考える。阪神淡路大震災が10年をむかえる寸前に新潟中越地震が起こった。10年前、政府は阪神淡路大震災を教訓に危機管理を徹底するようなことを言い、様々な委員会を発足していたように感じる。しかしながら、10年をかけて新潟で起こった地震で行なわれた対策は10年前の対策と何ら変化も無かった。上に書いたとおり、川を一つ挟んだだけで災害が起こっているという現実感すら希薄になる中、マスコミの野次馬的な報道を見ている他の地方の人間が現実感を持って考えられるとは思いにくい。現に、新潟中越地震では、安定した避難所の確保等の不備から車で生活する人が増え、その中で亡くなる人々が多く出てしまった。阪神淡路大震災の時の孤独死という言葉が、あのニュースで喚起された。新潟中越地震で孤独死が出ない対策というのは何らかの形で練られているのかというのは不安である。新潟の避難所を映したあの映像は、10年前のものと全く変わりが無かったから不安なのである。

神戸を訪れると、あの惨状を喚起することも無いほど復興が進んでいる。人間の凄さを実感する。それと同時に人間の強さも感じる。あの悲しみから10年、一つの区切りが訪れることは間違いないだろう。災害はいつ自分に起こるかわからない。特に、日本のような地震が頻発する国ではそうだろう。人は忘れていく生き物だ、しかし戦後最大の被害をもたらした都市直下型地震が起こった1月17日に改めて被災で亡くなられた方々の追悼という意も込めて、忘れるのを防ぐために思い出すのではなくしっかりと考える事が出来ないだろうか、と1月17日の朝を迎える前の晩に思った。

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成人の日に思うこと

かつては1月の15日だった成人の日だが、ハッピーマンデーと言う不思議な法律によって日にちが毎年まちまちになった。そして今日がその成人の日だったわけだ。

数年前から成人式で暴れる新成人の問題が大きく取り上げられ、テレビのニュースを賑わせている。今年もたぶんに漏れることなく新成人が暴れる様が映像として流されていた。こういう映像を見ていると、果たして成人式というもの自体何故存在するのかすら疑問を抱かざるを得ない。成人式というものは成人としての式典と字のまま読めばそうなるが、ただ今の形を見る限りでは20年生きてきただけの人間の式典と一部の人間を見ると感じてしまう。言い換えれば、成人になっただけという感じだ。

こういう色合いの式典は本来、社会の通過儀礼の一環として存在する。社会の年齢的に属していたカテゴリーから別のカテゴリーへの決別の意味合いで本来は存在するのが一般的だろう。しかしながら、現在の日本においてはそういうカテゴリーへの旅立ちの決別というものが存在しない。全ては、学校が年齢とともに変化するのと同じようにただ順番的に訪れ、それに伴う社会的なタスクが増える程度で精神性などははっきりと求められない。例えば税金や、年金などというものは社会を構成する使命感よりも義務であり煩わしい行為でしかない。成人になり求められるのはそれらのタスクだけであり、その中に含まれる自覚、精神性を今や皆無に等しい。要は学校のテストやなんかと一緒なのだ。学校のテストというものはその場の知識だけが試され、学問を学習して自分の物とするなどという使命感や熱意は無い。その場だけ、それ相応の点数を取ればいいのだ。こういった「それさえしていれば良い」的な教育や環境で20歳までのほとんどを過ごし、そして大人としてだけのカテゴリーを与えられている。考えてみれば、成人式でそんな現象が起こるのも納得せざるを得ない状況は出来ている。コメンテーターのしたり顔のコメントは理解できないの一点張りだが、本気で考えるならそういう一面からの捉え方も必要なのではないだろうか。

ごく一部の人間だけが、そのような暴挙をしていてその世代がその様な目で捉えられる。しかしながら、その様な行為が発生する下地が無い以上、その様な現象は表象化しないという事を考えると苦言を呈さずにもいられないのは事実だ。ただ、自分の世代の成人式でもマスメディアが大きく扱わなかっただけで暴挙はあったのかもしれない。自省の意味も含めて成人式というものを考えたニュースだった。

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田臥選手解雇 無念だが・・

NBAフェニックス・サンズは18日、田臥勇太(24)の解雇を発表した。シーズン途中での権利放棄(waive)の手続きが取られ、今後はフリーエージェント(FA)選手扱いとなる。(日刊スポーツ)

突然の解雇だ。日本人初のNBAプレーヤーとなった田臥選手の解雇が発表となった。シーズンが始まり、新たな選手を獲得した時から逆風が吹いていた。僕はバスケットボールを詳しく知らないし見ることも無いのだけれども、あの大きな外国人の中でどう比べても背が低く見える田臥選手の頑張りというものはわかることが出来ていた。その段階で既に逆風だったはずだけれども、今回の逆風はチームの事情というやつのなかもしれない。

この解雇をどう捉えるのか?チームの公式コメント通り、チーム内で出場する枠の無い田臥選手のことを配慮してチームが他のチームからのチャンスを作るために契約という鎖を解いたと考える事もできる。ただ、一度手にしたチャンスと比較すると落差は大きい。さらに吹いた逆風に対してどのように田臥選手が立ち向かうのか見ものである。

人生、順風を上手く使いこなすのも必要だけれども、むしろ逆風の時どう立ち向かうかという事のほうが重要な気がする。逆風に向かって走った後は無風でも順風を感じることはある。風だけは自分ではコントロールできないのだなとこの記事を見て思った。田臥選手は日本人初という言葉だけでは終わって欲しくないなと思うし、更なる飛躍と活躍を欲してならない。メジャーでいつづける努力をする野球選手がいるように、夢の向こうを目指して欲しいなと思う。夢はかなえる前に戦わなければならないと実感させられるニュースだった。

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松坂が怒った、その先は

kyoudai

 怪物がチビっ子に怒りの喝だ。西武・松坂大輔投手(24)が会長を務める親睦団体「55年会」が主催する野球教室が11日、西武ドームで行われた。イベントには55年会の37選手と29チーム、455人の小学生が参加したが、松坂は礼儀を欠いた行動に苦言。さらには指導者、親の教育方法にまで異議を唱えた。55年会の今後の発展プランも口にした松坂は、将来の球界を担う子供たちを思えばこそ声を大にした。 (スポーツニッポン)

今年はチームが日本シリーズを制し、プライベートでも結婚と話題を事欠かない松坂選手が少年野球に対しての苦言を呈した。子供達の言葉遣い、礼儀を欠いた行動が怒りを導いた。松坂選手の言いたいことはよく理解ができる。年寄りの口癖のようであまり使いたくない言葉だけれども「最近の若いのは・・」と言いたくなることは実に多い。言葉遣いはもとより平素からの考え方等も実に修練されたものを持った人間はそうそう見ることは、身の回りではないのが実情だ。

僕の目から見ると、ある年代からそういった言葉遣いや礼儀というものを欠くものが多くなってきたように思える。やはり、その境目には遊びの変化があるように思えてならない。その節目はテレビゲームの登場だろう。小学一年生の時にすでにゲーム機で遊んだ事のある世代とそうでない世代で大きな差があるような気がする。幼稚園ぐらいまでは、組織的に遊ぶのではなくまだまだ親の庇護が大きい点から、小学校という親から離れ子供達だけで社会を構成する年代という部分に着目したい。年代の違いというのは絶対的なヒエラルキーだと思う。どう頑張っても年齢だけは追い越す事は事実上できないものだ。昔は子供達が大人数で遊ぶ時は必ずこのヒエラルキーの中に身を投じて、処世術を学んでいたのではないだろうか。ゲームと自分の関係だけではヒエラルキーに身を置くことは不可能だ。そして、親も親で自分も親と子というヒエラルキーの中に身を投じているという意識が低い。友達感覚というのは良いが、それはある程度のヒエラルキーの中での関係性が向上した場合のみだ。では、ヒエラルキーの中で関係性が向上するきっかけというのはヒエラルキーの上に存在するものが下に存在するものの何か、例えば実力や魅力を認めた時だけだろう。ゲームと自分という関係の中では常に自分は主人公だ。しかし、本来現実はそういうものではない。どれだけ努力しても力が劣る場合もある、その時の処世術すら身についておらず、自分は一番思想のようなものを振りかざす若い人が最近多い気がしてならない。認めることができないというのは、そういう部分だ。ただ、そういうゲーム機登場云々を別とした年代でもヒエラルキーの中でしっかりと処世術を学ばなかった人たちは認めるという能力が低い傾向があるのも確かだ。何も若い人間だけがそうだというわけではない、年代別で見る比率が多いと見受けられるだけで、年齢を重ねてある程度の社会的な立場になったもので、そういったソーシャルスキルを獲得していないものの方が救いようがないのも事実だ。

「55年会」というものが、あることを今回の記事で知る事ができたが「松坂世代」と表される年代だけに今後の動きも楽しみだ。年齢的にも野球という同じ競技の実力的にも雲の上ぐらいヒエラルキーでは高い位置にいる松坂に対する一部子供達の態度は、ある意味親の姿がそのまま映ったものだろう。こういう自分の名前が「世代」と表されるほどの実力者がこういう苦言を呈してくれた事は実に素晴らしい事だと思ったし、精力的に子供達や社会に貢献していこうという姿は頼もしいものを感じざるを得なかった。僕の知りうる限り、周囲で高いレベルで野球をやっている人間は礼節ができている事実がある。そう考えると野村元監督の「人間的な成長なくして技術の進歩なし」という言葉の重みを感じずにはいられない。

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